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某教育大学に在学する修士学生の日常、研究、気になる専門書など

合理的配慮について考えてみた

今日は、図書館で借りた雑誌を読んで、考えたことを書いてみようと思います。

今回読んだのは、

医学書院(編).(2025).『総合リハビリテーション』53(3).医学書院.

特集の内容は、「障害者の進学・大学生活・留学」です。

障害のある人が大学に進学する際に直面する課題や、支援の現状、米国における合理的配慮の実例などが紹介されていて、とても示唆に富む内容でした。

医学教育における合理的配慮の話が印象に残った

中でも私が特に印象に残ったのは、アメリカの医学教育における肢体不自由者への合理的配慮について書かれた部分でした。

「テクニカルスタンダード」という言葉をご存じでしょうか?

専門職教育課程(特に医療系)で求められる「最低限の能力・行動・技能」の基準
学生が学位取得や資格試験の受験資格を得るうえで、「これだけは満たしていなければならない」とされる能力のリストです。

 

このテクニカルスタンダードを巡って、

  • 器質的テクニカルスタンダード:身体的にその機能を有しているか(例:心音を「耳で」聞ける)
  • 機能的テクニカルスタンダード:その機能を他の手段でも実現できるか(例:聴診器と可視化ツールを組み合わせて心拍を確認できる)

という2つのアプローチの違いが説明されていました。

例えば、医師の条件として「心拍を聞くことができる」という要件を、聴覚そのものに限定してしまうと、聴覚障害のある人は排除されてしまいます。でも、「心拍を把握する」という機能が重要なのであれば、それを達成するために補助技術を使ってもよいはずです。

 

身近な教育の例に置き換えて考えてみる

この話を読んで、私はもっと身近な例に置き換えて考えてみました。

たとえば、小学校の国語の授業で「自分の意見について感想文を書く」という活動があったとします。
もしもその児童が手の不自由さによって鉛筆を持つことができなかったとしたら、「鉛筆で書くこと」だけを手段としてしまうと、その子は評価の対象から外れてしまいます。

しかし、この活動の本来の目的は「自分の意見を言語化して表現すること」ですよね。
であれば、パソコンやタブレットの音声入力などを使って書いても、その目的は果たせるはずです。

これはまさに「手段を柔軟にすることで、本質的な学びを保障する」という合理的配慮の考え方です。

図で表すとこんなイメージ。

「できる・できない」で切り分けない社会へ

この雑誌を読んで改めて感じたのは、「できる・できない」で人を評価するのではなく、どうすればその人が持つ力を発揮できるかを考える社会や教育の在り方の大切さです。

合理的配慮というと、「特別扱い」のように誤解されがちですが、実際は「目的を共有しつつ、そこに至るための方法を調整すること」にすぎません。

 

今回は障害者を例に挙げていますが、誰にとっても関係のある話だと思います。

こうした視点が、教育の現場にも、そして社会のあらゆる場所にももっと広がっていけばいいなと思います。

 

ご覧頂きありがとうございました。

記事内で紹介した雑誌です↓